院長ブログ

人間は何を残すかで評価が決まる人を残すのが一番

投稿日:2021.03.01
野村監督が死去(84歳)してから1年経つが私の脳裏に焼き付いた名言であります。

阪神の監督就任から退任までの私の知らなかった話

ヤクルト監督の退任は既定路線で、それでも野球現場に固執するには阪神監督を受諾するしかなかったのかもしれない。
阪神監督就任を水面下でお願いされて1か月以上が経過していた。大阪ドームで阪神戦を終えると宿舎に帰り、その後、村山実氏宅に向かった。
ご遺体に対面した直後に劇的に変わった。
やっと山は動いた!
それからの3年間は野村克也VS阪神の旧体質の暗闘の歴史だった。
沙知代夫人の脱税問題で退任という寂しい最後…
それでも野村監督による阪神のチーム改革を見逃さなかった人がいた。
星野仙一さんだった。
ノムさんが阪神を耕した。だからこそ「阪神の監督をやってもええで」と水面下で伝えてきたのだ。(サンケイスポーツ抜粋)

野村さんのあゆみ

戦後初の「三冠王」に輝き、球界を代表するスター選手に登りつめた野村さんだが、心の中にはいつも劣等感との葛藤があったのだろう。しかしそれは時に人一倍の向上心を生む。常にスポットライトを浴びる「ON」に対する反骨心こそが自身の原動力だった。
「ひまわり」に挑み続けた「月見草」
契約金0円のテスト生で南海に入団し、誰よりも貪欲に野球に取り組む姿勢、進取の気概…
名プレイヤーとなり、名監督へと上り詰めた。

現役時代は鶴岡監督から学んだことは何もナシ
「気合いだ!根性だ!打てない?ぶつかっていけ!」…
「親分」と鷹ナインから慕われた鶴岡監督は、野村さんにとっては反面教師だったのだろうか?
「いいように考えればね。野球とは何かと自分で勉強していくしかないと思いになりましたね。」

1967年にチームメイトとなったブレイザーから徹底してメジャー流の野球を吸収した。日本は精神野球ですから、こんこんと説教されて…
野球はどう考えても頭のスポーツだと…
パワーをやスピードではなく、野村さんが傾倒していたのは「考える野球」だった。

スペンサーは「クセ」の見破りに長け、打席に入る前に必ず投手のフォームチェックを行っていた。
キャッチャーをやっているとスペンサーが後ろに来て、じっと投球を見ている。
「あんなところで見せていいのか」と審判に抗議したんですけど、そういう視点を与えたのはスペンサーです。
野村明監督にとって、間違いなくこの二人は「ID野球」を形作る上でのキーパーソンとなった。(日刊スポーツ抜粋)

球界への功績

1.プロ野球中継に革命を起こした「野村スコープ」

ストライクゾーンを9分割した画面上のスーパーを使って投手の配球を予測する。
1984年に導入し、野村さんが投手と捕手の目線から配給を予測し、「ここに投げたら打たれますよ」などと予想するとズバズバ的中した。
結果を解説するのではなく、予測するという新たな解説者の役割を定着させた。
メディアを使って野球界を改革、野球は頭を使ってやるものだと知らしめたかったのですね。(スポーツニッポン抜粋)

2.クイック投法

阪急・福本豊の盗塁阻止の対策として考え出した。
当時、投手の考え方の中心にあったのは「打者をいかに抑えるか」ということ。
走者を出して盗塁されても最終的に打者を抑えて本塁を踏ませなければそれでいい。
大きく足を上げて最高の球を投げる。
そういう投手族の反発は相当なものだったが、将来を見越してその必要性を説き導入した。(デイリースポーツ抜粋)

3.リリーフ制

米国では既に投手の分業制が取り入れられていたが日本では、まだまだ先発完投が全盛の時代だった。
そんな環境の中で「リリーフ・江夏」誕生に動いた。
野村監督は江夏が長いイニングを投げて投げるのはしんどくなっていると感じ、そこで思いついたのがリリーフ転向案だった。
本人に打診したがその反発ぶりは想定を超えるものだったという。
「俺と革命を起こそうや」と投げかけた。
この「革命」という言葉が心に突き刺さる。(デイリースポーツ抜粋)

4.ID野球

1990年にヤクルトの監督に就任。チーム強化の方針としてデータ重視を揚げる。スコアラーにデータ収集方法と分析法を徹底教育する。上がってきたデータを選手にミーティングで叩き込み、黄金時代を築き上げた。(デイリースポーツ抜粋)

阪神時代においては

新庄二刀流、他の選手とは違うことをやりたいという性格を読み取り考えついた新庄の操作方法

遠山―葛西―遠山―葛西

4番の松井を封じた上で、前後の有打者をいかに抑えるか。圧倒的戦力の巨人に勝つ方法として、斬新な継投策を考案!

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