靖国神社(東京都千代田区)
投稿日:2014.07.03
加古川・高砂市のツトウ歯科医院です。ブログを見て頂き、ありがとうございます。
靖国神社の起源は、明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡ります。当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にあり、そうした大変革は一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同志の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は、国家のために一命を捧げられたこれら人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと、東京九段のこの地に「招魂社」を創建されたのです。東京招魂社はその後、明治12年(1879)6月4日に「靖國神社」と改称されて、現在に至っています。
創建の理念
靖國神社創建の目的は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折、お詠みになられた「我が國の 為をつくせる 人々の名を むさし野に とむる玉かき」の御製からも知られるように、世の平安を願い国家のために一命を捧げられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えることにあります。明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」(典拠は『春秋左氏伝』巻第六僖公中)という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
今年の正月の映画「永遠のゼロ」は大ヒットしました。
幅広い世代の観客(男性、女性、未婚)それぞれが、登場人物(宮部、宮部の妻、娘の清子、孫の佐伯健太郎と慶子)の思いに自分を投影させながら、それぞれの立場で「仲間や家族を思いやる愛情の深さ」「愛すること、愛されること」について考え、感じ、それが共感を呼び、伝染していったから大ヒットになったと思います。
両親がいて自分が生まれ、そして自分も親となり家族を築いていきます。自分の命は自分一人だけのものではないのです!
自分が亡くなることによってどれほど多くの人々が悲しむでしょうか?家に帰った時、家族の顔が見られることほど幸せなことはありません。ほとんどの人は、日々の生活に追われてゆっくりと自分を見つめる時間はないと思います。今一度何のために、誰のために生きているか考えてみませんか。
「自分が今生きていることの素晴らしさに気づいてもらいたい」が百田尚樹さんの思いであります。
これが「ゼロの世界」が語りかけるメッセージなのでしょう。
遊就館
03-3216-8326
零戦52型と「永遠の0」
「ゼロの世代」が語りかけること
インタビュー百田尚樹 WACBOX から抜粋
「謎の反転」は臆病風
アメリカでは戦場の功績によって昇格・降格が決まるが、日本海軍は、いわゆる「ハンモック・ナンバー」といわれる卒業成績の席次によって出世する仕組みになっていたのです。官僚には臨機応変な戦いができなかったのです。前線に立っていないうちは好きなことを言えるけれど、いざ前線に立って、実際に爆弾や魚雷の攻撃を受けると震え上がります。兵隊は訓練を積んで、命をかける覚悟と胆力ができていますが、提督たちは官僚としての出世のことばかり考えてきた背広組のようなものですから、戦場に行って怖気づくのはむしろ当然です。
レイテ海戦の栗田提督の「謎の反転」は有名ですが、そんなものは謎でも何でもなく、ただ臆病風に吹かれただけです。
日米の「思想」の違い
日米の決定的な違いは、「攻撃型」と「防御型」ということでした。日本は戦闘機も、軍艦も武器も、徹底して攻撃重視です。性能スペックを見ると、スピードも攻撃力も、何もかもアメリカの船よりはるかにすぐれていました。ところが、実際に戦ってみると、アメリカの軍艦のほうが強い。なぜなら、アメリカの船は、少々の魚雷を受けようが、爆弾を食らおうがなかなか沈まないのです。日本の巡洋艦や空母は攻撃型につくられているかわり、敵の攻撃に弱くてすぐ沈んでしまう。日本はいかに敵を攻撃するかばかりを考えて兵器をつくっていました。防御は考えません。そこには人命軽視の思想があります。それがのちの特攻につながったとも言えるのではないでしょうか。
ハルトマンの信条
第二次世界大戦で「最高撃墜王」と呼ばれたドイツ空軍のハルトマンは350機落としたという怪物パイロットですが、彼の信条は「生きて家族のもとに帰る」でした。
200機落としたという日本の最高撃墜王、岩本徹三は、特攻を命じられた時に断固拒否しています。「戦闘機乗りは敵を落として帰ってくるのが仕事ではないか、何度も出撃して何度も落としてくるのが戦闘機乗りの使命だ。たった一回の戦闘で死んでたまるか」と言ったそうです。すごくガッツのある人でした。
所沢航空発祥記念館
04-2996-2225
堀越二郎の生涯 より抜粋
1924年(大正13年)
東京帝国大学航空学科に入学。21歳で海軍の複葉機の後席に初めて同乗し、曲技飛行に圧倒されることになりました。操縦者は日常では経験しないほどの重力加速度(G)を受けながら、常に冷静に的確な操作をしなければならないことをこの搭乗体験で実感します。その体験で、操縦しやすい戦闘機を作るにはどうしたらよいかを考えるようになり、生涯にわたる設計思想に影響を与えることになります。
1935年(昭和10年)
全金属の先進的な96式艦上戦闘機を初飛行させました。
1939年(昭和14年)
戦前の日本の航空技術の頂点ともいえる零戦が初飛行しました。限られた出力のエンジンを用いて厳しい設計要求を満たすために1グラムも無駄にしない徹底した軽量化を行い、超ジュラルミンを世界に先駆けて使用しました。さらに洗練された空力形状と、巧妙な操縦システムによって未踏のバランスを実現させたのです。
1940年(昭和15年)
前線進出という目標に向かい、パイロットたちに実践的な飛行実験が続けられて、どんな飛行状態でも銃撃が故障なく作動するよう、実践用の戦闘機として仕上げられてきました。「零式艦上戦闘機11型」と名付けられました。
おまけ
1
日本軍の高射砲 グアム
2
アリゾナ記念館パール・ハーバー
3
昭和19年11月8日、伊36・37・47の三潜水艦を母艦として、各艦に回天4基計12基、搭乗員12名をもって編成した「菊水隊」が、ウルシー環礁、パラオのコッスル水道在泊敵艦船攻撃のため、徳山湾大津島基地を出航した。これが回天特別攻撃隊最初の出撃である。終戦直後、米軍との連絡のため、フィリピン・マニラに赴いた日本軍使に対し、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、開口一番「回天を搭載し作戦中の潜水艦は何隻か。直ちに作戦を停止させよ。」と命じた。このことは、『回天』が如何に米軍に恐怖と脅威を与えていたか、を物語る証左と言えよう。
全国回天会(03-5166-7546)のパンフレット抜粋
4
(秘匿名称・連絡艇?艇)
全軍より選抜された、この16歳から25歳の若き精鋭たちは昼夜を分かたぬ猛訓練の後、19年10月、30コ戦隊の編成をもって、おのおの最後の決戦地、フィリピン・沖縄・台湾に展開を完了した。陸軍海上挺進戦隊は国軍の大きな期待を担って、短期間の訓練の後、不慣れな海上において無防備の特攻艇を操り、敵船艇を撃沈すること数十隻という赫々たる戦果を挙げた。生還を期することのできない任務であり、当時は隠密部隊として、まったく世に発表されないままに終戦を迎えている。青春のすべてを擲って鬼神のごとき攻撃を敢行し、再び帰らざるもの1,636名の多きに及んだ。陸軍海上挺進戦隊の業績は、その家族と国を憂う純粋な心とともに、永く青史にとどめなければならない。
(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(03-5213-4594)
5
長崎被爆者へ「死に損ない」
爆心地周辺を案内していた被爆者で語り部の森口貢さんに横浜市からの修学旅行の中学生が「死に損ない」と暴言を吐いた。案内前に振る舞いを厳しく注意されたはらいせとはいえ「死に損ないのくそじじい」と大声を叫んだことは許し難い。森口さんは取材に「戦後69年がたち戦争の悲惨さが分らない社会の雰囲気の中で子供たちが育っているのではないか」と話した。
日刊スポーツ6月8日
毎日放送ラジオ 浜村淳