終活の前に 今日までの歩みを振り返りました(読みたい人だけ読んで下さい)
投稿日:2014.06.18
加古川・高砂市のツトウ歯科医院です。ブログを見て頂き、ありがとうございます。
「傳」は「伝」の昔の字です。「どう読むの?いわれは?」と聞かれます。つたやの屋号であり、日本人です。
小学校時代、名前が珍しいことから3人兄弟とわかり、優秀な兄達と比較され、実の子か先生間で話題になったと母から聞きました(トラウマになる)。
医者の環境に育ち、自然と医学へと路線が引かれていきます。
白い巨塔がテレビ放映されたことをなんとなく記憶しています。鉄腕アトムの作家、手塚治虫は医者だと知りました。
中学時代
福島県の野口英世記念館に行きました。
手術により、やけどした左手首が動くようになり、医学こそ人間の不幸を救う道だと知ります。貧しい家庭に生まれたのですが、色々な人との出会いと援助により医者になりました。失望と忍耐と、血のにじむような努力がくり返されていき、ついに自分の不幸を大きな幸福に育てあげ、全人類の幸福へと発展させていきました。
高校時代
入院中の父を見舞いにいった時「お前も医学(医者、歯医者)に進めよ」と遺言されました。「帰って来たヨッパライ」「戦争を知らない子供達」のヒット曲を作詞した北山修は京都府立医科大生でした。現在は、九州大学名誉教授です。
浪人時代
上の兄は父親がわりのつもりだったのでしょう。さかんに医者をめざすようにハッパをかけてくれました。しかし、どうしても国公立の医学部合格の偏差値がとれないで苦しんでいた時、従兄弟が「埼玉県の城西歯大(現、明海大)には特別待遇制度があり、寄附金はいらない」と教えてくれたのです。
熱心に愛読したわけではないですが、この時期だったと思います。
大学時代
日本育英会と大学の奨学金で当時の授業料32万円を、家庭教師で下宿代をまかなっていました。学年が進むにつれて歯科は手先の技術が関わり、無器用な者にとっては苦痛な思いをするものであります。卒業時、病理学に関心があり母校の教授をめざすつもりでしたが、上の兄に神戸大学付属病院をすすめられました(母親のさびしさを気遣ったのでしょう)。
神戸大学付属病院時代
歯科界では口腔外科と補綴(入れ歯、かぶせ)は中心的な領域であります。その口腔外科で働くのですが、医者へのあこがれはたちきれない!口腔癌患者の手術後管理でベテランナースに御指導をして頂いたものですが「全身管理もできないのにオペをして~」と叱咤激励されました。
臨床3年経過した頃、兵庫県和田山の明廷鉱山の診療所に出向した時の話
兄2人が大学院に進んだため、私も負けじと大学院へ
杉の木立に混じって、翌檜の老樹が一本だけ生えていました。鮎太はいつか冴子が家の庭にある翌檜の木のことを「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生けん命考えている木よ。でも永久に檜にはなれないんだって!それで
あすなろと言うのよ」
あすは医者になろう、あすは医者になろうと思って麻酔科に出向。全身麻酔の挿管の時にもたつき、インストラクターに「歯医者も医者のはしくれやから~」と罵倒されました。
嶋田教授と上司が考案した実験計画が認められ、国から科研費700万円も!
上司が開業で退職後、私が引き継ぐことになり、毎日夜おそくまで日曜日も研究室にいくことがありました。この時代の生活パターンが開業後の基盤となります。上の兄が加古川の病院に勤務していた時に知り合った方のご縁でお見合い結婚に至りました。結婚式当日の未明に学位論文が完成したことを覚えています。
開業 36才
口腔外科教室には優秀な先生(先輩、後輩)が多く、自分の技量では教授に不向きと思い開業を考えている時、身近な人のすすめで現地で開院することになりました。病院勤務時代は一般歯科診療以外に難抜歯や骨折などの外科処置、腫瘍(悪性)などの口腔外科手術の介助をしていました。
卒業して10年以上経過していましたので、現在の一流といわれている先生の治療はどんなものか興味をもつようになり、年間に50回以上の講習会や実習の参加をノルマにしました。日曜日は、東京から西日本の間を東奔西走しました。はじめは、入れ歯、歯周病、根の治療などを中心に勉強しましたが、その先生特有の考え方や手技、材料などがあり、いろんな先生を追っかければ追っかける程、深みにはまりこんでいきました。ある程度の理解と納得するには10年近くかかっており、またあの先生のその後の進化はどうか気になり、さらに追っかけることもあった。さらに、勉強の領域を広げて(かみあわせ、往診、医科領域との関連など)いきました。
50才になった頃、ある講習会ですすめられた書籍を読み、人生の歩み方、考え方が変わりました!真実の程は別として、多くの成功者は自分の体をこわして病気になるか、家庭崩壊が多いと知りました。ふと我家に目をむけた時、ドキッ
子供達は親と一緒に遊びにいくよりも友達同志で楽しく過ごす方がいい年齢になっていました。遅かった!後悔しても今更どうしようもない。父親の背中を見て育ってくれると思っていました。ところが働いている姿をほとんど見ていないし、土日祝日は講習会参加しているので、妻子とほとんど話をする機会はありませんでした。好き勝手な事をしていると思われていたのです。幸い、妻のおかげで子供達は真直ぐ成長していたことにありがたく感謝しています。
50才までは歯科専門書しか読まなかったのですが、それ以降は歯科の勉強をほどほどにし、社会情勢、経済、精神世界、西洋東洋医学、代替療法、観光名所に目を向けるようになりました。
還暦を過ぎたこともあり、成功と思われる人物の人世の歩みが気になり始めました。人それぞれ、長い人生の中で必ず転機というものがあるハズです。従兄弟の一言がなければ歯医者になっていなかったかもしれません。兄のすすめがなければ城西歯大に残っていただろうし、仲人との出会いがなければ高砂での開業はなかったでしょう。私をしたって頂いてます患者様ともめぐり会えていないのです。
これまでの人生は、様々な人達の助けを得、従業員の協力のおかげで今日があります。歯医者になったのも私の運命であり、患者様の健康管理に全力を尽くすことが私の使命だと理解しています。
みんなと同じことをしても私だけがおこられたりしたものだ。なぜなんだろう???また、何か新しい事を試しても必ず壁にぶつかってきました。その壁をのりこえるにはかなりの努力が必要だったこともありましたし、すんなりいかず遠回りをして時間を要したこともありました。こんな人生をずっと嘆いてきました。
しかしながらここ2~3年前から自分の思いが叶えられる確率が上がってきたのです。いま思う事が叶えられないのは、いま必要がないのだと悟るようになりました。
2月13日 うまれるブログも見て下さい。
先祖のだれ一人が欠けても私は生まれていません。
「いま、ここ、わたし」が存在しておれるすべての事象にただひたすら感謝している次第です。生まれてきてよかった!すばらしい人生ありがとう!これからは宮沢賢治(病床中に書かれた雨ニモマケズ)のそういうものに私は
なります。
おまけ
① 手塚治虫(宝塚)0797-81-2970
手塚治虫と医療
② 野口英世(福島県耶麻郡猪苗代町)0242-65-2319
今夜も一組の二百枚を残り少し見蓋した。之は晝間、助手のムーアが一生懸命に見たが、どうしても見えませんといつて、匙をなげた代物である。百九十枚も過ぎた。百九十五枚も過ぎた。夜は既に暁に近く、最後の一枚に彼は全精神を集中した。果然!目ざす「スピロヘータ」は平凡な姿をし乍ら、平凡な研究者の発見を厭ふものの如く、組織の奥深く隠れているのが見つかった。之に見慣れた眼を以つて、再び若い番号の標本を見ると、チャンとそのところにも見つかるではないか。野口は狂喜した。
【本のタイトル:野口英世 442ページ
出版社:野口英世記念会復刻から抜粋】
③ 宮沢賢治(岩手県花巻市鍛冶町4-13)
④ 八代亜紀
コンサート中の話
はっきりと聞きとれなかったのですが、たぶん父親の事言われたのだと思います。
「お父さんを助けたい」と言えなかった。「出ていけ。いらない」と言われ、家を出ていったから今の八代亜紀があるのだと・・・人生ってわからないものですね
⑤ お家さん
神戸の巨大商社「鈴木商店」を支えた女の一代記