院長ブログ

昭和天皇「拝謁記」

投稿日:2019.09.03
神戸新聞8月20日より抜粋

初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇とのやりとりを記した「拝謁記」が見つかった。
関東軍の謀略だった1928年の張作霖爆殺事件をめぐる田中義一和内閣の対応について「事件のさばき方が不徹底であった事が今回の敗戦ニ至る禍根の抑々の発端」と胸中を明かしていた。

軍部の専横を「下克上」と非難し「早く根絶」すべきだったとも主張していた。

「太平洋戦争ハ近衛が始めたといてよいよ」と述べていた。
太平洋戦争は45年8月15日に終わる。
「無条件降伏はいや」と語った52年3月14日の記述には「一寸こちらが勝ったような時ニ其時を見つけたいといふ念もあった」とある。
連合国側に打撃を与えた後に講和に持ち込む「一撃講和論」を持っていたことが改めて裏付けられた。



【侵略者が人間社会ニある以上軍隊は必要
「歴史の証明するところではソ連といふ国は何をするかわからない。中立不可侵条約があったにもかかはらず日本が仲裁を頼んであったにもかかはらず宣戦して来るという国だ」
昭和天皇が再軍備を志向した背景には、当時のソ連の侵略を現実の脅威と捉える危機感があった。

50年に始まった朝鮮戦争を契機に自衛隊の前身の警察予備隊ができた。
中国や北朝鮮の後ろ盾はソ連だった。
サンフランシスコ講和条約発効を控え、国内では独立後の安全保障のあり方を巡り国論が割れていた。

こうした状況下で昭和天皇は田島に明確な意志を示している。
「私は憲法改正ニ便乗して外のいろいろの事が出ると思って否定的ニ考へてたが今となって他の改正ハ一切触れずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやった方がいい様に思ふ」

その1ヶ月後には「警察も医者も病院もない世の中が理想だが、病気がある以上は医者が必要だし、乱暴者がある以上、警察も必要だ。
侵略者のない世の中ニなれば武備ハいらぬが、侵略者が人間社会ニある以上、軍隊は不得己必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」と胸の内を明かしている。

昭和天皇はこうした思いを吉田首相にも訴えようとしていた。しかし、戦後の憲法は「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定。
田島は許されざる意見だとして繰り返し戒めている。

今回明かされた再軍備と憲法改正にこだわる昭和天皇の姿。 私は再軍備によって旧軍閥式の再指頭は絶対に嫌だと強調、決して戦前回帰の意図はなかった。
君主より象徴として長く生きた昭和天皇は晩年の88年、先の対戦への思いを問われこう述べていた。
一番嫌な思い出であり戦後国民が協力して平和のために努めてくれたことを嬉しく思う。今後も国民がそのことを忘れず平和を守ってくれることを期待している。
君主的な思いを引きずり、自分が前面に出た方が良いと考える天皇を、田島は新憲法を意識して諌めている。
象徴天皇制のレールを田島が敷いたともいえるやり取りで今につながる制度が作られる過渡期の様子がよく分かると茶谷誠一志学館大学准教授は述べています。



【終戦74年】

戦後世代が人口の8割を超え、戦争経験者が急速に減る中、戦争の記憶の風化が懸念されます。

柳田邦男さん神戸新聞8月15日の抜粋です。
現在、政治の中心を担うのは戦争を体験したことがない戦後生まれの世代になった。戦後世代の怖さは、理屈や机上の理論で戦争を考えることにある。
戦争を経験した過去の政治家達は、どんなに右寄りと言われた人でも「絶対に戦争だけはしてはいけない」という信念を持っていた。
悲惨な現場を見たが故の拒否感が血肉として染み付いていた。
戦争を阻止するには、大切な人の命を突然、理不尽に奪われた悲しみを経験した人々が次の世代に伝え、共有していくことが重要であり、かつ責務だ。
伝えることにより一人一人の大切な「命」として実感でき、同じような不条理な死を二度と出すまいと思うようになる。
平和な社会はそうやって作られる。
だが、これまで必死に語り部をしてきた人たちが高齢化で次々と亡くなっている。

戦闘機「紫電」のパイロットで、当時特攻機の護衛を務めた岡田良さん(92歳・三木市)によると第341海軍航空隊は、フィリピンの飛行場で、上官から特攻隊へ志願する意思を聞かれた。ほぼ全員が志願。断れる雰囲気ではなかったと言う。
隊員たちは18、19歳が多かった。みん口数が少なく、悲壮な空気を感じた。
出撃するときの特攻隊員は、勇ましい雰囲気を漂わせていた。
彼らにも生への執着はあっただろう。
生きたいという気持ちを表に出せないのはつらかったと思う。

昨年秋頃、磯野辰治さん(在宅往診患者)とお会いする縁がありました。残念ながら春頃に亡くなられたのですが、家にありました貴重な資料を見てください。



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