水木しげる
投稿日:2016.01.23
加古川・高砂市のツトウ歯科医院です。ブログを見て頂き、ありがとうございます。
ゲッゲッゲゲゲのゲー
朝は寝床でグーグーグー
たのしいな たのしいな
おばけにゃ 学校も
しけんもなんにもない
ゲッゲッゲゲゲのゲー
みんなで歌おうゲゲゲのゲー
作詞:水木しげる 作曲:いずみたく
漫画家の水木しげる 本名・武良茂(むらしげる)さんといえば、ゲゲゲの鬼太郎を思いつくでしょうね!
幼い頃からマイペース 両親が心配するほど言葉を発するのが遅く、4才で「ネンコンババ」(猫の糞)と初めて言葉を発する(蒲団でした粗相を猫のせいにしようとしたらしい)。
自分の名前を「しげる」とうまく言えず「げげる」と発音するため、周囲がそれをおもしろがって「ゲゲ」とあだ名をつけました。
幼い頃、家に出入りしていたお手伝いのおばあさん「のんのんばあ」に可愛がられた。
神仏やそこらの土地に伝わる妖怪の話を聞かされて育ち、よく連れられて行った正福寺の地獄極楽図を見て、異界に興味を持つようになりました。
15才で大阪に出てから就職先はどこもすぐにクビになり、学校もことごとく失敗、社会に居場所がなかった(オチコボレ)。
絵を描くのがうまく、コレクションへの情熱は常軌を逸するほどでした。昆虫採集では標本箱の山を築き、人口取りという遊びのために都市名や人口のデーターを猛勉強、新聞の題字を集めることにも熱中しました(オタク)。
乙種合格で召集、戦地へ、九死に一生を得る (出征直前の手記から)
「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何だ。哲学が何だ。今は考へる事すらゆるされない時代だ。こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。絵を描くことさえゆるされない時代。その想いをすてることはできなかった。絵画への情熱。私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言う心が常にある」
鳥取連隊に入隊するが、いきなり軍隊生活になじめるわけもなく、いつものマイペースぶりを発揮し、古兵から日々ビンタをくらう。
ラバウルの第一線のいちばん先頭にいました。歩哨に立っ(見張り役)ていたら後方から敵襲をうけ、ただ一人助かるも蚊にいっぱい喰われてマラリアを発症しました。寝込んでいるところを空爆されて左腕を失いました。
復員後も貧困に苦しめられる 神戸市水木通りでアパート経営に乗り出します。入居していた紙芝居作者の勧めで自らも紙芝居業界に入ります。親方が、水木通りにちなんで「水木さん」と呼ぶので、そのまま「水木しげる」が筆名となります。
テレビの普及で壊滅寸前の紙芝居業界を見切り、貸本漫画を目指して上京、先輩漫画家の手伝いをしながら「ロケットマン」でデビュー。
以降、ジャンルを問わず描き続けますが、原稿料は雀の涙で、家計は楽にならず不遇の時代でした。
1961年(39歳)、布枝さんと見合いの5日後に結婚 別の人と映っている水木さんのスナップ写真を見て、笑顔がとてもよく体が大きくて抱擁力がありそうだとキュンときました。「縁があればよい方向にいくだろう。そしたらその流れを沿っていこう」
苦しい自転車操業のもとで新生活がスタートしました。
結婚前にもちよった衣服も質屋に売る状況
黒くなったバナナ(これからおいしい)というのは売り物にならず、タダ同然で買ってきてむしゃぶり食べた。人参は皮まで食べ、パンも耳だけもらってくる。こういう生活をしていました。
お父さんがこんなんでいいのかときくと「貧しくても毎日笑って暮らしているよ」と。
極食生活のなかでも支え続けられたというのは、ひたむきに原稿にむかう姿に感動したから。夫に漫画を描いている姿、背中から立ち上る不思議な空気に吸い寄せられるような感じがしました。
貸本漫画から一般漫画誌の世界へ 食うや食わずの貧乏生活から脱したのは40代、少年向け週刊漫画誌で「ゲゲゲの鬼太郎」などがヒットしてからでした。
抑え込んでいたオチコボレの力とオタクの力を合わせて一挙に開花させました。
当時の日本は高度成長期でした。鬼太郎、ぬりかべ、一反木綿などの妖怪の姿を借りて、人間以外の生き物や土地や自然に敬意を払わず、弱者を踏みにじる日本人の身勝手さ、醜さを突いた。
幸福の七ヵ条 幸福とは「成功」ではなく「楽しさ」の追求と定義 第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない
現代には悲壮な顔をして歩いている人が多すぎる
第二条 しないでいられないことをし続けなさい
好奇心がわき起こったら、そのことに熱中してみる
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし
世界の奇人変人には幸せそうなひとが多いではないか
第四条 好きの力を信じる
漫画が好きだからこそ、歩いてこられた60年
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ
好きの力を信じ、しないでいられないことをし続ければ、努力すら楽しい
第六条 怠け者になりなさい
続けるためには怠けることも必要
迷った時には立ち止まってもいいんです
第七条 目に見えない世界を信じる
この世には物質的な価値観ではとらえられないものがあり、それこそが人の心を豊かにする
水木しげるさん 私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。
もし両腕があったら他人の6倍は働けるだろう。
命を失うより片腕をなくしても、生きている方が価値がある。
私が幸福だと言われるのは、長生きして勲章をもらってエラクなったからではありません。
好きな道で60年以上も奮闘して、ついに食いきった。
ノーベル賞をもらうより、そのことの方が幸せといえるでしょう。(93歳)
武良布枝さん 男が「これに懸ける」というのはこういうことか。
この人と一緒なら野草を摘んでも生き抜けると、自信のようなものがあったわね。
「ゲゲゲの新聞」刊行でのコメント(平成25年)
結婚して50年が過ぎましたけど、漫画に打ち込む姿勢といったらなかったです。したたる汗をぬぐおうともせず。私は描いている後ろ姿を見てるだけでね。どう声をかけようかと。新婚時代も、新妻の顔を振り返るなんてこともなかった。貧乏だから、余計に鬼気迫るものがあったわね。