院長ブログ

戦争の記憶を失う瀬戸際まできている(戦後70年)

投稿日:2015.08.21
ワシントンやロンドン海軍軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有率と補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の保有率を低く抑えられ、これにより本来一枚岩であるべき海軍省と軍令部の間に溝が発生します。

満州事変で陸軍が広大な満州の地を武力制圧します。
日本海軍はドイツ・イタリア(ファシズム勢力)との連携によりアジアにおける政治経済ブロックを形成し、日本がその主導権を掌握することこそ国家目標と考えていました。

海軍は南部仏印進駐(石油の権益を求め)でアメリカを怒らせ、仏領インドシナと中国からの即時撤退を求めた「ハル・ノート」を受け取ります。陸軍に対する海軍の面子を優先させ、組織内の意思統一をしないまま開戦へと踏み切ることになります。

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森村正になりすました外務書記生は毎日真珠湾口の近くまでいき、米艦隊の習性を探り、そのうち哨戒機の動きかた、陸軍の防備配置などかなり細かく打電するようになっていきました。

軍令部は敵艦隊を日本近海で迎え撃ち撃退するという形をオーソドックスな戦法としていましたが、山本五十六は空母と航空機が主力となった今、日本近海まで米艦隊が来ればとても勝てないとし、開戦劈頭の奇襲しか勝つ道はないと主張しました。

真珠湾作戦は秘密保持を徹底し雷撃訓練は最重要かつ極秘の訓練でしたが、米側は暗号解読で近く日本が攻撃することをつかんでおり(?)、日本から「最初の一発」を撃たせたいとじっと待つのでありました。

沈没したアリゾナの上に建設

沈没したアリゾナの上に建設

緻密に計算された空襲

緻密に計算された空襲


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米太平洋艦隊の最大の脅威であった戦艦隊をを葬り去った(トラ・トラ・トラ)のだから大勝利といって間違いないのですが誤算もありました。
①空母がいなかった
②海が浅いため沈めた戦艦でも引き揚げられて修復され戦列に復帰
③工場群や石油タンクまで攻撃しなかったことが反攻を容易にした
④宣戦布告の遅れにより「だまし討ち」と受け取られ、日本への憎しみと士気を高める結果となった

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ミッドウェーで一瞬の暗転

いくら南方を制圧しても太平洋に米艦隊がいるといずれ反撃に出て日本本土を攻撃される。先制攻撃で全滅させない限り安全はない。日本軍がまずミッドウェーを攻撃すれば米艦隊がハワイから駆け付ける。いわゆる「おびき寄せ」作戦でありました。

連戦連勝ゆえの気の緩みが連合艦隊の慢心を招きます。
ミッドウェー作戦は出撃前から噂が広がったようです。
待ち受ける米軍は日本の暗号解読でほぼ行動を把握できていました。

ミッドウェー島攻略と空母部隊撃滅のどちらかを優先するのか意思統一が不十分で戦闘は後手に回った。二度の兵装転換が唯一の敗因だったのか?空母をかためて置くという伝統的艦隊編成する日本に対して、米軍は一隻単位で輪型陣を組み、それぞれを離しておく。
つまり、連戦連勝の中で、失敗を省みることのなかった日本と連敗続きの中で修正を繰り返し学習した米との差もあるように思えます。
甲板上の回天

甲板上の回天


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メインデッキに命中

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昭和19年、サイパン島で守備部隊が玉砕した。敗色が濃厚になる中、人間もろとも敵に体当たりし生還を全く期待できない「十死零生」の特攻に突き進む。
人間魚雷「回天」鳥巣元中佐が命じたレイテ沖海戦の火ぶたが切って落とされ、フィリピンでの特攻作戦を決める。零戦に250キロ爆弾を抱かせ体当たり 大西滝治郎中将案

旧防衛庁防衛研究所によると命中率は回天で2%、航空機で11.6%
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ(軍人勅諭)」が人命軽視の出発点といわれる。

特攻勇士の像

特攻勇士の像

知覧特攻平和会館

知覧特攻平和会館


本土決戦前の「捨て石」沖縄県民4人に1人が犠牲
沖縄は米軍に出血を強要するー持久作戦で、国軍総力の大作戦は本土で遂行するのが本旨でした。
しかし、持久戦とは裏腹に一個師団を台湾防衛のために引き抜き、戦力を大きく弱体化させました。4月1日、18万人を超す部隊が一斉に上陸を始め米軍の圧倒的な火力攻撃は「鉄の暴風」と表現されました。

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本土決戦を準備するための時間稼ぎ、持久作戦のため南部へ撤退しました。6月23日、司令官の牛島らが自決し、日本軍の組織的な戦闘は終わりました。日本兵の戦死者は約94000人、県民の死者は約10万人(南部撤退後の犠牲者は6万人)とされています。
大本営は将兵、県民を問わず、重傷者には自決用の手榴弾を配るように指示していました。また、住民たちは敵は残酷な「鬼畜米英」で捕まった女性は暴行されて殺されるなどと教えられていました。それは集団自決を引き起こす一因になったばかりでなく、日本軍から離れて行動するのは危険だという認識につながりました。

防衛召集で総動員(鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊など)ひめゆり平和祈念資料館の集計では14~19歳の学徒を中心に約2000人が戦闘員や看護要因として動員され半数が命を落としました。

ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館

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運命を分けた2つのガマ(壕)

日本兵がガマにいると住民は出てこない。米軍は容赦なく火を放ちました。米兵に辱めを受けるよりも死ぬ方がいいという考えを絶対的に信じ込まされていた。一方、日本兵がいないと米兵は住民を残虐に殺さなかったのです。

戦争を知らない私が、限られた資料(書籍、新聞、テレビ)だけでブログ化しましたので、内容が正確かどうかは別として戦争というものを考えさせられました。患者さんには3回も輸送船沈没後に救助された強運の持ち主の方もおられます。
私が子供の頃に父から聞いた話ですが「あの場所に隠れようとしたが???のため別の場所に隠れた。戦闘機が去ってみるとあの場所の兵士は亡くなっていた」一瞬で生と死を分ける人生って何なんだろうな!

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東京湾上での調印式
September 2.1945

おまけ①

ひめゆり平和祈念館周辺で聞く現地人の声(信憑性はわかりません)
・本土から来た兵隊がガマ内の住民を追い出した
・ガマ内にいる小さな子供が泣くとうるさいからといって注射の安楽死
・沖縄の住民は戦争だから仕方がないと思っているが恨んでいる人もいる
・アメリカ兵は優しかった。食料をくれ貧しい人は助かった。今の老人の中にはアメリカ様々でありがたく思っている人もいる
・「指揮官は自分の子供の年代を特攻隊などで殺してしまい、自分は生き残った。人から攻められ続けた。国の命令とはいえ申し訳ないと…」といっていた
・危ないから移動していたら米軍が攻めてきた。本土人にスパイがいる。
・終戦直後兵隊に女性が襲われた。
・戦後、国から南部の未亡人はお金をもらっているが北部の人はもらえなかった。

おまけ②

国の為に忠義を尽くせと教えられ、国家の大事に殉ずる国民の使命感だけでなく、両親・兄弟・恋人らの思いを背負って出撃突入していったのであろう。
おかげで今日の平和があるのですよね。(子供たちに伝えたい日本の戦争から抜粋)
国が滅びようとする瀬戸際に一身を投げ出して最後まで戦う日本人の勇気に米国人は心から畏怖の念を持ちました。このことは戦後日本に対し、分割統治など過酷な占領政策をさけたことと無縁ではないし、日米安保条約とともに日本を守る抑止力の役目を担ったことも事実だろう。その意味で現代の日本人にとって特攻隊員たちの散華は決して戦いでも死でもなかったといえるでしょう。

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おまけ③

KANSAI熱視線(NHK)5月29日放送
シリーズ戦後70年なぜ特攻を志願したのか
京都大学学生から海軍に入隊(学徒出陣)した岩井忠熊さんの話

昭和18年戦略悪化
教官たちからは「貴様たちは生きて帰れない」っていうふうに言われました。それが当たり前の空気になってきたので、これからますます我々は厳しい立場に立たされると予測しました。
海軍では大学で自由主義個人主義に毒されたお前たちを叩き直してやるといい教官たちは学生をよく修正、修正(鉄拳でぶん殴ること)
誰かが修正をされるとほかの全員も怒られることが多い。
お互いにほかの学生に迷惑をかけないように行動していくようになっていくわけです。
結果として期待されたとおりの海軍士官の形にはめられるというわけです。

この度、危険を伴う決死兵器が開発された。その特殊任務を志願する者は申し出るようにとういう趣旨でした。
自分の命を危険にさらすことに簡単に決断できたわけではない。
予備士官の面目をみてやりたいという気持ちが強かった。
その頃すでに大学にいっていなかった同世代の若者たちが戦場で多くの死を散らしていました。大学出の予備士官である自分の命を捧げることが起死回生の一手になるのではないか、そう考えたのです。
死から逃れられない運命にあることを強く感じていた。航海士になっても死ぬ確率は非常に高いということであれば特殊任務についてもそれほど変わりがないのではないか。
自分の義務感みたいなものを実現する具体的なチャンスだと受け止めた。もうこうなったら自分たちの果たすべき役割を忠実に果たそうと思いました。
それが戦争というものの心理状態みたいなものだと思います。

特殊兵器「震洋」
ベニヤ板のモーターボートの船首に爆薬を搭載し敵艦に体当たり攻撃するもので5か月間訓練した後、輸送船で石垣島へ出撃しました。途中で米軍の攻撃を受けて船は沈没、海に飛び込んだ後救助され、再び出撃の命を受けることなく終戦をむかえました。

おまけ④

27年8月15日の新聞
ドイツは降伏するときに3つの条件をつけた。新憲法は自分たちで作る。教育は絶対ドイツ人が決める。国軍は必ず残す。連合軍は条件をのんだ。日本は原爆2つ落とされ、無条件降伏だ。戦後の日本の平和なんてのは奴隷の平和ですよ。戦後70年で、下意識まで改ざんされてしまった。自分の国の運命に無関心だ。亡国のふちに立たされながらそれに気づいていない。石原慎太郎(日刊スポーツ)

玉音放送の原盤が公開されたのは誰の判断によるものか知らないが、あの戦争は間違いだったことを再確認しようという意味があったのではないだろうか。戦争を知っている最後の世代のジャーナリストとして「戦争に正しい戦争も間違った戦争もないのだ。戦争だけは2度とやってはならないことなのだ」ということを遺言として死ぬまで伝え続ける使命感を感じている。田原総一朗(スポーツ報知)

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