阪神・淡路大震災 パート2
投稿日:2015.02.05
加古川・高砂市のツトウ歯科医院です。ブログを見て頂き、ありがとうございます。
あの日から20年! 今、大切なことは! 震災の復興はまだ終わっていないのではないかという目で被災した人達や私たちの社会を見ていくことが大切ではないでしょうか。
街の再建は確かに進みましたし、震災の傷跡を目にすることはむつかしくなりました。しかし、そのことが今も残されている課題を見えにくくしているように思えます。
家族や友人を失って心の傷がまだ癒えていない方も沢山います。自宅の再建のために多額の借金をかかえて返済を続けている方もおおぜいいます。
震災で大きく人生が変わってしまった人達にとって震災の復興はまだ終わっていないのです。この20年間、被災した人達も行政も誰もが震災からの復興を目指し、懸命に歩み続けてきました。
その20年の歩みの中で達成できた事、できなかった事を今一度あらためて見つめ直すことで、今後おこる大災害の復興につなげていく事が大事なのではないでしょうか。
20年というのは数字の上でのふしめでしかないのです。
震災の記憶がうすれてきています。(世代交代が進み被災12市、震災後に出世18%)
私たちの経験と教訓を未来に伝えていかなければなりません。
通常の始発よりも1時間早い特別震災号に乗車して三ノ宮駅に到着しました。
幸いなことに、東遊園地では若者や小さな子供連れの家族を見うけました。
市民のつどい(1月15日) 男はつらいよ 寅次郎紅の花 ロケのきっかけは山田監督への一通の手紙でした。
石倉さんは知的障害を持つ仲間らと長田区でパン店(くららベーカリー)を営み始めて9ヶ月で被災し、店は半壊しました。「寅さん」が大好きだったので、ロケに来てほしいと手紙を差し出したのですが、山田監督は「商業映画を、まだ被災の生々しい場所で撮影なんて、そんな失礼なことできるわけないだろう」といったん断ったという。
地元の有志の署名や障害者の人達が働けるパン屋さんが被災しても2月から営業再開したと知り、考えが変わったという。
市民のつどいの講演後にくららベーカリーにいき、色々な話を聞かせて頂きました。その折には、ありがとうございました。
JR兵庫駅の北西で、長田区2-2-6
078-578-1929
阪神淡路大震災20年 生死をわけたドキュメントから
生きるための教訓が放映されていました。(池上彰 27年1月14日)
(A)人の声はガレキの中から外へは伝わらなかった、しかし衝撃音は届いた! 被災地では救助活動の重機音や捜索するヘリコプター音が鳴りひびき、ガレキの内からの人の声は聞こえにくいのです。
(音の大きさは90デシベルで電車の高架下と同じレベル)
自分の居場所を知らせる方法〈1〉
ガレキを叩いた振動音で外に伝える
あまり叩いて、それでどこかがくずれることもあるから気をつけないと…
自分の居場所を知らせる方法〈2〉
防災用の救助笛を吹く(3200ヘルツ音と4800ヘルツ音が同時に鳴る)
赤ちゃんや救急車のサイレン3000~5000ヘルツで聞こえやすい音域
(B)通電火災とは? 地震によって起きた停電が復旧した時、スイッチがオンになっていた電気ストーブなどから出火してしまうことです。
原因が特定された建物火災のうち約6割が通電火災によるものでした。
(阪神淡路大震災の教訓)スイッチをオフにしましょう。
(C)火災旋風 1000度を超える火柱
強烈な輻射熱で20m先のものが燃える
周囲の可燃物に火を放ちながら移動
(阪神淡路大震災でも目撃)
火災旋風写真(イメージ)
実験写真(筒で周囲を囲むと炎が勢い付きます)
火災旋風が起きる仕組み
炎が高温のため上昇気流が起き、周囲から空気を吸い込む
(D)正常性バイアス 目の前で異常事態が起こっても「大丈夫だろう」「自分は助かる」などと心を平静に保とうとする働きです。
これがあることで日常生活がいつもビクビクしないでいれます。
ちょっとしたことがあっても平常心を保てるのはこの働きがあるからですが、本当に異常事態になった時この働きがマイナスになってしまうことがあります。
関東大震災時の映像
逃げ惑うのではなく火災をながめていたり笑っている人も見られます。この中には逃げおくれた人がいます。
御嶽山の噴火
亡くなられた方の半分以上の携帯やデジカメなどには、当時の噴火の様子が撮影されており、すぐに逃げなかった。まさかそんな危険がおよぶとは思っていなかったと推測されます。
東北釜石中学校—–釜石の奇跡の立役者、菊池のどかさん
生徒たちが逃げたことが率先避難となり早い避難につながりました。
小中学生の生存率99%
自分だけが立ち上がって逃げるのは何となく憚られる。誰かが「危ないから逃げろ!」と言って逃げ出すと、皆つられて逃げ出します。
(E)なぜ災害時、電話がつながらないのか? 皆が一斉にかけるからかかりにくいと思われてますが、それだけではなく通話規制されるからです。病院や救助活動などの大切な電話もかかりにくくなるため通話規制することにより、緊急の電話のやりとりをスムーズに行うことができます。
東日本大震災では最大95%規制。
(F)クラッシュシンドローム 阪神淡路大震災では、372人が救出された後に発症し50人が死亡しました。
例えば、右足がガレキの下じきになったとします。
右足は強く圧迫され血液の循環が悪くなり、数時間もたつと筋肉の細胞が損傷し、カリウムという物質が筋肉から血液中にしみ出します。
このカリウムは心臓の動きを弱める働きがあり、何の処置もせずに右足のがれきを取り除いてしまうと、カリウムが全身にまわってしまいます。
心臓にカリウムが大量に送られると突然に心臓が止まってしまうことがあります。ガレキを取り除く前に点滴をして血液中のカリウムの濃度を下げます。
クローズアップ現代(27年1月15日) 復興の原動力となってきたのが、当時40代、50代だった働き盛りの世代です。
家族を守ろうと生活や地域の立て直しに懸命に働いた世代です。
NHKアンケート調査では、当時働き盛りだった人々の5人に1人が自分の暮らしの復興、心の復興が震災前の半分以下にとどまっていると答えています。
経済的、精神的苦境にたたされていることがわかりました。
一生、二重ローンの残債にかかり
一生 復興はない
一生 震災の影におびえている
実際の生活苦はローンの返済と共に始まり
震災後の人生はそれだけで終ったというのが事実です。
震災は何だったんだろう。ずっと走ってきました。走っても走っても終らずいつになったら思い出として話せるのだろう。私名義のローンは75才まで。心の平安を得たい。
母を亡くしたこと。家の全壊によるマンション購入でのローンの返済で今も苦しんでいます。震災がなければおそらく母もいまだに元気にいると思うとまことに残念です。
震災から20年、子供二人を亡くして、生きていれば何才だろうと考える時がつらく、神も仏も本当はいないのだと思い続けております。
子供たちの遺骨は家にあり、家族として一緒に生活しております。
ようやく店を再開しました。ところが、街の再開発が進んだことで商店街の様子は一変しました。常連客も次々と街をはなれていき客足も遠のいていき、店の営業がたちいかなくなったというのは皮肉なことです。
テレビ放映された、声の一部を抜粋しました。
心の叫びに痛感!!
長田の震災直後と現在の様子
おまけ(1) 災害時帰宅支援ステーション
大地震が発生した場合、通勤・通学、買い物、行楽などで外出中の人は、公共交通機関が不通となる可能性が高く、多くの人が徒歩で帰宅をすると考えられます。
災害時帰宅支援ステーションでは、(1)水道水の提供 (2)トイレの使用 (3)地図等による道路情報、ラジオ等で知り得た通行可能な道路に関する情報の提供など、可能な範囲で協力していただけることになっています。
このステッカーがある店舗は、コンビニエンスストアやファーストフード店、居酒屋等にあります。