院長ブログ

昭和大ヒット曲(裏話)

投稿日:2019.03.01
加古川・高砂市のツトウ歯科医院です。ブログを見て頂き、ありがとうございます。

去年12月30日のレコード大賞は乃木坂46が「シンクロニシティ」で2年連続2度目の大賞に輝きました。
第60回のうち、昭和で30回、平成で30回の開催となりました。
デイリースポーツ(12月27日)引用ですが、史上空前のハイレベルな大賞争いだったと語り継がれる1979年にスポットを当てました。

この年度の歌は、タイトルを聞くだけで口ずさめる曲ですね!

小林幸子:おもいで酒 八代亜紀:舟歌
さだまさし:関白宣言 山口百恵:しなやかに歌って
ゴダイゴ:ビューティフルネーム 五木ひろし:おまえとふたり

並み居る強敵を退けて栄冠を掴んだのは「魅せられて」のジュディ・オングでした。

「絶対に負けられない戦いだった。ただのレコード大賞ではなかった。私自身、人生の選択をした。自分が歩いてきた道は間違っていなかったと確かめなくてはならない12月31日だったのです」

どういうことなのかと言いますと、映画「将軍SHOGUN」に出演することが決まっていて、米国のパラマウントで衣装合わせまでしていました。しかし「魅せられて」がヒットすると、どうしても決まっていたショーと時間が重なってしまい、それでプレス発表の日に降板が決まったのです。後に同作はゴールデングローブ賞を獲得し、ヒロインの島田陽子は同作をきっかけに国際女優として羽ばたいていく。大きなチャンスを手放して挑んだ大晦日の決戦で、誰よりも思いは強かったのです。


甦る歌謡曲(平成29年1月4日)

徳光和夫がはまった元祖女性アイドル
セクシーアイドル(世のおじ様たちを挑発した歌詞を歌った女性アイドル)
山本リンダ:どうにもとまらない 1972年
森山加代子:白い蝶のサンバ 1970年
奥村チヨ:恋の奴隷 1969年
辺見マリ:経験 1970年
金井克子:他人の関係 1973年

実力派アイドル(歌唱力で魅了した女性アイドル)
由紀さおり:手紙 1970年 童謡歌詞から実力派
伊東ゆかり:小指の思い出 1967年 幼い頃からステージに立つ

徳光和夫が選ぶ日本人の心を一発で掴んだ昭和の名曲 特殊な声 当時の日本人に新鮮な声として響いたハスキーボイス
もんた&ブラザーズ:ダンシングオールナイト 1980年
クリスタルキング:大都会 1979年

独創的な歌唱スタイルで心をつかむ 艶めかしい歌い方
ピーター:夜と朝のあいだに 1969年
松坂慶子:愛の水中花 1979年

世相を反映 日本の高度成長を背景にしたヒット曲
井沢八郎:あゝ上野駅 集団就職 1964年
畑中葉子・平尾昌晃:カナダからの手紙 海外旅行ブーム 1978年

武田鉄矢によると、カラーテレビが昭和歌謡を変えた 1972年頃、歌の世界も光と色彩に彩られて様変わりして行った。
1970年 聴かせる歌の結晶のような歌手(年間シングルランキング)
01位 皆川おさむ:黒猫のタンゴ 141.5万枚
02位 ザ・ドリフターズ:ドリフのズンドコ節 78.3万枚
03位 藤圭子:圭子の夢は夜ひらく 76.5万枚
04位 藤圭子:女のブルース 74.8万枚
18位 藤圭子:命預けます 44.2万枚
25位 藤圭子:新宿の女 33.6万枚

聴かせる、を通り越して聴き入る、聴いている人間をそこに釘付けにしてしまう歌声でした。

1970年頃、日本はどんどん良くなっていく。
激しい競争も生まれます。
競争すれば勝ち負けが当然生まれる。
圭子は敗け去った人たちを一手に引き受けた。
時代の競争に敗れた人達の心を掴んだのでした。
心の傷を歌う彼女の独特の圭子節が日本の敗れて、一杯飲んでいる男たちの心を優しく撫でてくれたのでした。

カラーテレビ普及で聴かせる歌から見せる歌へ大きく様が変わっていく、カラー時代のアイドル路線が芽生え躍動し始めます。 日本歌謡大賞新人賞の2曲
小柳ルミ子:わたしの城下町 1971年
アグネス・チャン:草原の輝き 1973年

カラー時代から積極的に授賞式で泣くようになりました。

林修ドリル(平成30年10月3日)

ロス・インディオス&シルビア:別れても好きな人 76.9万枚
歌詞の一部を変更(傘もささずに青山→原宿)したのは、1978年ラフォーレ原宿がオープンし、原宿が若者文化の中心となったから。
大ヒットした理由は映像カラオケが開発されたからなのです。それまでは歌詞カードを持ちながら歌うのが一般的でしたがモニターを見て歌えるようになり、スナックなど一気に広がりました。ママや従業員と一緒に歌うデュエットソングが人気となりました。

海援隊(武田鉄矢):贈る言葉 93.3万枚
卒業生へのメッセージのイメージですが、なんと別れの歌、失恋でできた歌だったのです。武田鉄矢さんは女性に「放して」「大きい声出すよ」と言われ、フラれて泣いていたそうですよ。
「人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから」この歌詞を思いついたのには、裏話が!?
武田さんはふられると落ち着くために本を読むそうです。
太宰治の言葉で 「人は憂いが多いほど人に優しくできる。だから人間として一番優れている」から引用
曲のタイトルも芥川賞受賞の柴田翔、贈る言葉のパクリ
久保田早紀:異邦人 140万枚
この時代では珍しいエスニック調の曲
サブタイトル「シルクロードのテーマ」外国をイメージした曲調
カナダからの手紙、飛んでイスタンブール、見せられての様に外国をテーマにした曲がヒットしたのは、1978年に成田空港の開港によるのです。

もんた&ブラザーズ:ダンシングオールナイト 156.3万枚
2年間、実家に戻り100曲以上作った中の渾身の一曲。
独特なハスキーボイスですが、実は電話をかけたら女の子に間違えられるような細い高い声だったのです。
声を潰すために海に入ってガーガーと叫んだ。
声がちょっと枯れる。あ!ええ感じや!みたいなことで半年ほど繰り返してるうちに独特なハスキーボイスが誕生しました。
歌手の命=声を潰すリスクを取った。


林修ドリル(平成30年10月17日)1976年編

山口百恵:横須賀ストーリー 65.4万枚
伝説の歌姫の最大のヒット曲
17歳で歌い上げた女の悲しい恋心
知られざるレコーディング秘話(宇崎竜童氏によると)
山口百恵は天才だった。何よりもびっくりするのはものすごく忙しい人だった。
テレビの連続ドラマをやり、舞台をやり、取材をやり、映画に出て、その合間にレコーディングがあった。
究極の短時間で曲を書かないといけなかった。アレンジしなければいけなくて、カラオケもとって、そして歌をのせるのを三日間でやったことがある。
曲作りが1日、アレンジで1日、3日目の歌入れでは完璧に歌いこなした。
プレイバック Part2
一晩で覚えて、一晩でレコーディングした。すごいな!
曲の解釈力、詞の咀嚼力をこの年齢で持っているのはすごいな!

中村雅俊:俺たちの旅 75.7万枚
社会の不条理に悩む三流大学生らを書いたドラマ
出演時の衣装は中村さんの私服で末広がりズボンが大流行

太田裕美:木綿のハンカチーフ 86.7万枚
都会に出て行く男性と田舎に残る女性、切ない男女の掛け合いに注目。
男性が都会に染まって別れる歌
この歌がヒットしたことで木綿のハンカチーフをもらう=別れ


子門真人:およげ!たいやきくん 453.6万枚
日本中がたい焼きブーム
鉄板は売り切れ、小豆は高騰
子供番組の曲がなぜ売れたのか?
「およげ!たいやきくん」に感銘を受けたのはサラリーマンだった。

毎日、鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ。
↓↓↓↓
会社に縛られるサラリーマンをイメージ。

店のおじさんと喧嘩して海に逃げた。
↓↓↓↓
上司と喧嘩して会社を辞めたいサラリーマン。

教えてもらう前と後(平成30年12月4日)

松田聖子:赤いスイートピー 1982年
実は、赤いスイートピーが大ヒットした頃、この世に赤いスイートピーは存在してなかったのです。
作詞家の松本隆さんが告白。
発売されてから教えてくれた人がいて、ヤバイ
その後、中川猛さんが試行錯誤して

ピンク系の種┬ピンク系の種
交配

赤いスイートピー

15年の月日が過ぎて一本の赤いスイートピーが2006年に誕生し。曲のヒットから24年が経っていました。

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